東京新聞・2003.9.1. 評者・佐々木力
■フランスのある数学者との会話を思い出す。彼は日本人で詩的なフランス語で数学論文を書く学者がいるという。私はそのような数学者の名前に該当する人はただ一人しか存在しないと考え、岡潔の名前をあげた。正解であった。
■数学を客観的な合理的思考の規範的学問のように考えている人がいるが、必ずしもそうではない。美しい数学はどういう数学かなどで評価は人ごとに大きく異なる。その意味で数学は音楽に似ている。
■本書は、日本の近代数学を代表する一人岡潔の前半生の評伝である。岡は多変数解析関数論の未解決問題のいくつかに挑戦し、ものの見事に解決したことで著名な数学者である。数学者には、博識な型と、深く沈潜する思索型の両者がいるが、岡は典型的な後者のタイプであった。彼は世事に疎く、大学生活の多くを他人に依存しなければならなかった。だが、前人未到の数学の深い領域に分け入り、海外の大数学者から賛辞を寄せられた。
■本書は、岡のこれまで知られざる一時代の出来事の解明に成功している。それは最も独創的な考えを産み出した時期にあたる一九三六年以降の数年である。岡は当時三十代後半であり、広島文理科大学(現在の広島大学)助教授であった。著者がさまざまな史料によって確認したところによれば、岡は当時明確に「狂気」の境域にあった。私もこの事実を初めて知った。独創的な発想と精神の状態との関連を知る上で、きわめて重要な研究と言わねばならない。
■岡潔は戦後、文化勲章を受章し、その後は『春宵十話』を始めとする日本の「民族精神」を称揚する著書を世に問うことになる。人はこの言動で岡の名前を記憶にとどめているかもしれない。
■本書は既成のエッセイを編集してなったものであり、重複をもっと整理して欲しかったという注文がないではないが、情熱はよく伝わってくる。姉妹編の「花の章」を待望する。
ことばは味を超える (瀬戸賢一編著)
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朝日新聞・2003.3.9. 評者・新妻昭夫
■読みすすみながら、「じゃあ、こんな例はどう考えるのか」と、ゼミに参加しているような気分を楽しんだ。若手や中堅の研究者の本が広く読まれることはまれだが、本書はその数少ない例外となるだろう。第一の理由は、食べ物の味をどう表現するかという、誰もが食指をうごかされるテーマにある。感覚生理学からいえば、味には「甘味」「塩味」「苦味」「酸味」「旨み」の五種類しかないのに、「味ことば」は無数といってよいほど多彩だ。
うそつきのパラドックス
■「うまい」の反対語は「まずい」。「おいしい」の反対語は「おいしくない」。「甘い音色」や「甘い夢」は英語でも同じようにいう。しかし「ネジが甘い」や「甘い考え」という表現は英語にはない。思わず「どうして?」とつぶやいてしまう。まだまだある。「深い味」というが、味の深さを物差しで測れるわけがない。深さという視覚のコトバで味わいを喩えているのだが、喩えにはメタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)とシネクドキ(提喩)とシミリー(直喩)があり……詳しくは本書参照。「味ことば」はじつに「奥が深い」。
■私がとくに興味をもったのは「一方向性の仮説」。「甘い響き」とはいうが「リズムのある味」とはいわない。「暖色」とはいうが「赤みのある温度」とはいわない。なぜなのか? 「〔触覚→味覚→嗅覚〕→〔視覚→聴覚〕」という関係があり、音の「響き」という聴覚刺激(原感覚)を受けたとき、「甘い」という味覚刺激(共感覚)が呼び覚まされ、逆方向はないという説だ。この仮説が成立するならば、味を表現できる共感覚は触覚しかないことになる(「まったりとした豚骨スープ」)。
■だが、グルメ評論にかぎらず、味を表現する共感覚コトバはいやになるほど豊富だ。実態はどうなのか、著者たちは美食エッセイなどを参照するだけでなく、ぱそこんで「Google」を活用する。たとえば「丸い味」と「赤い味」を検索すると、重複例などを除いて202件と26件がヒット。叩き台としての仮説と、誰にでもできる調査方法が、読者を議論の軸に誘いこむ仕掛けとなっている。
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毎日新聞・2002.2.3. 評者・左近司祥子
■人間は大昔から謎解きが好きだった。自然科学の出現もその結果である。あげく、人間は自分で謎を作りあげてまで、その解明を楽しもうとした。なぞなぞも、推理小説もそれである。でも時には、自分の作った謎に足を取られて動けなくなってしまうこともある。その一例が『うそつきのパラドックス』だ。
■これは古代ギリシャで考案された当初「うそつきのクレタ人」と称されるパラドックスだった。しかし、今では、余分な装飾は取り除いて、「私が『私の発言はうそだ』とのみ発言するとき、私の発言は本当か、うそか」と文章化され、それが『うそつきのパラドックス』と称されているのである。
■二千数百年もの間、犯人探しに成功しなかったこの謎が、二十世紀に好んで取り上げられたのには訳がある。二十世紀の哲学の一派である英米哲学の特徴は言語を考えること、しかもその論理構造を数式を交えて考察することであった。そんな彼らにとって言語の曲芸が生んだ『うそつきのパラドックス』は格好のテーマだったのだ。
■著者は、英米の哲学者達が、どんなやり方で犯人探しをしたかを、丁寧に、しかも、要領よく紹介してくれる。取り上げられるのはラッセルに始まりシモンズに終わる錚々たる学者達である。とは言え、彼らは、ラッセルを除けば、サルトルほどにも私達には知られていないのだ。それは、彼らが、言葉の問題を論理数学的に扱ったからだ。最近の新聞記事を引用するまでもなく、私達の多くは、数学嫌いである。記号と数式アレルギーである。それらを駆使した論証など、初めから聞きたくもないのだ。
■その事情を理解している賢い著者は、本当なら数式を使えば簡単に話が進むだろうところでも、言葉を尽くし、言葉で説明しようと努力する。数式が出てくるのは、この本の最後の最後、やむをえずという形でである。だから、この本なら、文系の私でも読み通せるのだ。そして、今まで馴染みのなかった二十世紀の英米の哲学者の仕事が少し身近になってくるという余得も味わえる。
■著者がラッセルたちの解決策をことごとく拒否していく根拠は、彼らの議論が ad hoc な(この問題を解くだけのその場限りの)議論であることと、自然な言語習慣を無視したものであることの二点である。だから、最終章で明かされる彼の「犯人」はこの二点をクリアーした「コロンブスの卵」的な、あっと驚きはするものの、やっぱりねと納得できる犯人である。ただそれが犯人なら、なぜ「私の発言は本当だ」との発言の場合には問題が生じないのかにも言及が欲しかった。